最終更新日: 2004-05-23
ホームページ 新着情報 準備中 年表 地図 リンク

  工事中です。 04年6月中には完成させたいと思います。

注意!!! 各リンク先についても現在工事中であり、内容には責任が持てません。従って、引用される場合は原典その他のソースからお願いします。

 

バングラデシュの民族

ここでは主にチッタゴン丘陵地帯の諸民族に関して説明するが、同時に他の民族に関しても可能な範囲で述べる。

バングラデシュは2003年7月時点の推計で総人口が世界で8位の1億3千8百50万(138,448,210)人に達し、LLDC(後発発展途上国)としてはもっとも人口が多い。大多数はイスラム教徒のベンガル人が占め、次いで一割弱をマイノリティの立場にあるベンガル人ヒンズー教徒が占める。そしてアディバシと呼ばれる先住民族は平野部とチッタゴン丘陵地帯合わせて人口の2%弱にあたる160万人から200万人と推計される。

・ ベンガル人(ベンガル語を母語とする人々)

ベンガル人はバングラ語(ベンガル語)を母語とし、多様な人種が混淆して形成された民族であると考えられている。バングラデシュのベンガル人社会は8割を越えるイスラム教徒、マイノリティであるヒンズー教徒、そして仏教徒集団に分かれる。イギリス植民地時代には人口の3割を占めていたヒンズー教徒は迫害の結果、現在は一割を下回っている。他にバルア姓を名乗る仏教集団が南東部のコックスバザール、チッタゴン周辺に暮らしている。 >>>詳細を読む

・ 平野部のアディバシ

平野部には主に北部を中心にドラビタ系のサンタルやオラオン、モンゴロイド系のガロやモニプリ、カシアなど多様な民族が暮らしている。>>>詳細

・ チッタゴン丘陵地帯のアディバシ(ジュマ民族、他称でパハリ)

 

・ その他

他に大集団としてはパキスタン時代にインド・ビハール州から移住してきたビハーリーとビルマ(ミャンマー)・アラカン州からのロヒンギャ難民がいる。

 イスラム教徒であるビハーリーは、バングラデシュ独立後に多くがパキスタンに受け入れられたが、残りはパキスタンが受け入れを拒否しているために難民となっている。一部はキャンプから出て自立して暮らしていたり、あるいはベンガル人との結婚など、パキスタンへの送還問題が解決を見ない中でバングラデシュ社会に同化する傾向もある。興味のある方は橋本龍『バングラデシュを撮る』(岩波ブックレット)に詳しいのでご覧頂きたい。

ロヒンギャ難民については依然として2万人近くがコックスバザール近くのキャンプにとどまっている。ミャンマー政府が残っている難民の帰還を拒否していることからUNHCRはバングラデシュ国内での定住を提案している。

詳しく知りたい方は以下のページを参照されたい。

バングラデシュのビルマ人―ロヒンギャ少数民族 (山村淳平氏)
http://www.burmainfo.org/rohingya/yamamura20010519.html

 

バングラデシュの先住民族

・ アディバシとは

アディバシという言葉はインド・バングラデシュに共通する用語で元から暮らしてきた人々の意味で先住民に非常に近い概念である。

ベンガル人の中にはアディバシは外からきた連中であり、ベンガル人こそバングラデシュの先住民族であると主張する人がいる。もちろん、その主張は単に土地の不法な略奪に対する非難をかわすための方便に過ぎないし、まともに相手にするような類の主張ではない。

しかしながら、この主張はしばしば為政者たちとその使用人(もちろんその中には学者も含まれる)によって発せられ、アディバシに対する迫害を正当化する論拠ともなっる。

確かにアディバシの多くはどこからか移住してきた集団である。中には20世紀に入ってから移住してきた集団もある。しかし、彼らはベンガル人が所有あるいは占有していた土地に入ってきたのではないし、バングラデシュという国が出来るずっと以前にその土地に定着した人々である。

彼らは各々独自の社会制度、文化、言語および宗教を持ち、非アーリア系であり、またその多くはモンゴロイド系である。各民族の居住地域はインド、バングラデシュ、ビルマと分散しているが、1947年に英領インドがインドとパキスタンとに分かれて独立してからは国境を越えた民族の交流は困難になりそれぞれ独自の道を歩んでいる。

バングラデシュにはインドのような「指定部族」制度はなく、アディバシの実態の把握は難しい。

 

・ アディバシの状況

最近になって、バングラデシュではジュマ民族を含む45民族すべてのアディバシが参加するアディバシ・フォーラムが結成され、それぞれが直面している問題や課題がシェアされ、一致した運動が展開されている。

多くのアディバシは依然として生存の危機に瀕している。特に2001年の総選挙後は半ば公然とアディバシの村々を襲い、財産を強奪し、あるいは村から追い出すといった人権侵害事件が連日のように発生した。ヒンズー教徒に対する集団的な迫害と同様か、それ以上にアディバシへの攻撃は深刻である。また、そうした事件を報道するジャーナリストも多数殺害された。

 

民族数と人口

アディバシの活動家や人権団体はアディバシの人口が不当に低く報告されていると繰り返し指摘してきた。その問題を検証のために、ダッカに事務所を持つ調査研究NGOであるSEHD(The Society for Environment nd Human Development)が1997年に北部の5つのタナ(郡に相当)を対象に調査を実施した。報告では例えばマイメンシン県のバルカ・タナ(Bhaluka thana)は、91年センサス(10年ごとの国勢調査)のアディバシ人口は1947人であったが、実際は4,919人だった。人口増加率を勘案しても、センサスの数字は実人口の半分に過ぎない。他のタナはそれほど極端ではないが、センサスがいい加減であり不当であるというNGOやアディバシの主張がこの調査によって裏付けられた。

人権活動家のリチャード・W・ティム神父は、実際よりも意図的に人口を低く見せることは、 アディバシが直面している問題の重要性を低く見せ、援助や開発プログラムの対象から彼らを排除することに役立ってきたと指摘している。(マイノリティライツグループ、「バングラデシュの先住民と人権」反差別国際運動日本委員会、解放出版)

バングラデシュ全土には一体、どれだけのアディバシ集団が暮らしているのか。公式の統計では、1991年センサスは27民族1,205,978人で総人口の1.13%となっているが、しかし、1999年の国際先住民族デー(8月9日)、ダッカで開催されたアディバシの集会で採択された「アディバシ」宣言によれば、バングラデシュのアディバシは43民族160万人と記されている(但し、付属の表では45民族)。

チッタゴン丘陵地帯には13民族約70万人が暮らしているとされるため、従って平野部のアディバシは32民族90万人から100万人となるが、いずれにしてもはっきりしたことは分からない。

 

民族 カタカナ読み 別表記または別名 人口(人)
Rakhain ラカイン Arakani 16,932
Garo ガロ Mandi 64,280
Harizon     1,132
Koch コーシ Koch, Kuch, Coach 16,567
Munda   Mundari 2,132
Paharia パハリア Pahary 1,853
Santal サンタル Saontal 202,162
Buna     7,421
Hajong ハゾン   11,540
Khasi カーシ Khasia 12,280
Maniruri マニプリ Meithei 24,882
Oraon オラオン Urang,Urao 8,216
Rajbansi ラジバンシ Rajbongshi 7,556
Urua     5,561
その他     260,743

 

 

 

 

 

  Contents

■CHTの民族集団と3県の人口

■CHT以外の少数・先住民族集団

■CHTの民族的特徴

■バングラデシュの民族問題(準備中)

参考資料を見る

 

 

 

表1 チッタゴン丘陵地帯の先住民族集団

民族 カタカナ読み 別名、別表記 宗教 人口(人)
Chakma チャクマ   仏教 252,858
Tripura トリプラ Tripuri, Tipra ヒンズー 81,014
Tanchangya トンチョンギャ   仏教 21,639
Marma マルマ Mag, Mogh, Mug 仏教 157,301
Rakhaine ラカイン   仏教 16,932
Bawm ボム Bum,Baum,Bam キリスト教 13,471
Pankho パンコー Pangkhua キリスト教 3,227
Mrong ムロン Murang, Mrung アニミズム 22,178
Mro ムル Mroo アニミズム 128
Khyan キャン Khyen 仏教、キリスト教 2,343
Khami クミ Khumi, Kami アニミズム 1,241
SaK サック Chak, Tsak,Thak アニミズム 2,127
Lushai ルシャイ Kuki(?) アニミズム 662

 

 

表2 CHT各県の人口

1981年と91年の国勢調査結果
地区 合計 先住民族 ベンガル人
81年 91年 81年 91年 81年 91年 81年 91年 81年 91年
バンダルバン県 161,987 229,612 89,503 108,473 55 47 72,484 121,139 45 53
ランガマティ県 280,879 397,713 177,075 225,323 63 57 103,804 172,390 37 43
カグラチャリ県 265,590 340,095 172,880 164,799 65 48 92,710 175,295 35 52
合計 708,456 967,420 439,458 498,595 62 51.5 268,998 468,825 38 48.5

 

 

 

 

 

1996年の推計人口

バングラデシュ 1億2430万人('97年データー。バングラデシュは統計上、男性が女性より多く、極めて珍しい人口構成となっている。男女比105.8)

バンダルバン  246,000人

ランガマティ   457,000人

カグラチャリ   500,000人

  


表3 CHT以外の少数・先住民族

原典:1991年バングラデシュ国勢調査 (アルファベット表記は原典のまま。発音の分からない名称についてはカタカナ表記を省いた。順不同)

民族 カタカナ読み 別表記または別名 人口(人)
Bawm ボム Bum,Baum,Bam 13,471
Garo ガロ Mandi 64,280
Harizon     1,132
Koch コーシ Koch, Kuch, Coach 16,567
Munda   Mundari 2,132
Paharia パハリア Pahary 1,853
Santal サンタル Saontal 202,162
Buna     7,421
Hajong ハゾン   11,540
Khasi カーシ Khasia 12,280
Maniruri マニプリ Meithei 24,882
Oraon オラオン Urang,Urao 8,216
Rajbansi ラジバンシ Rajbongshi 7,556
Urua     5,561
その他     260,743

(表一段目のボムはバンダルバン県に居住するジュマ民族です。原典のとおり掲載しました)

 

ジュマ民族を含む少数・先住民族人口計  1,205,978人

 


チッタゴン丘陵地帯の民族的特徴

 ここでは、ジュマ民族に共通する話題を取り上げます。CHTの民族分布図(大判カラー表示)をご覧になる場合はここをクリックするか、右横の地図をクリックして下さい。(新しいウインドウに表示されます)民族分布図はここをクリック            

人種的特徴

 

事実、チャクマ人の中にはベンガル人と区別がつきにくい人もいます。これは長い歴史の中で混血が繰り返されてきたことの証ですし、また現在でもごく希に先住民族とベンガル人の間での結婚があります。

 

民族(部族)の数 

 

破壊された仏像言語 

 

宗教 チャクマ、マルマ、トンチョンギャ、ラカインは仏教を信奉し、トリプラはヒンズー教であり、その他の諸民族はアニミズムやキリスト教を信奉しています。仏教について言えば、上座部のなかでももっとも古い起源をもった信仰形態であると考えられています。また、キリスト教を信じる集団は植民地時代に改宗が行われました。しかし、ジュマ民族における宗教の特徴は、それぞれ異なる宗教を信じているが、多くの場合、自然を崇拝するアニミズム信仰が彼らの宗教文化の基底をなしているという点です。なお、強制同化政策の結果、CHTではイスラム教徒に改宗する人もいますが、民族運動の側では強制的に改宗されられた人々の元の宗教への復帰の自由を要求しています。

焼き畑の収穫農耕 ジュマと言う言葉は Jhum (焼き畑)から派生した言葉で、焼き畑をする人という意味です。英語の文献などでは、Jhum shifting cultivation と移動耕作であることが強調されていますが、日本語における「焼き畑」という言葉は移動することが前提のような言葉ですので、あえて焼き畑移動耕作と記述する必要はないでしょう。チッタゴン丘陵地帯は熱帯多雨地域に属します。言うまでもありませんが、熱帯雨林では高温多湿なために土壌の分解が早く、従って表土が薄いという特徴があります。そのために、作物を得るためには、その土地の樹木を焼いて土壌に栄養を補給する必要があります。従って、丘陵部においては焼き畑耕作が一般的なのです。焼き畑地は、一年間もしくは2年間耕作し、その後約10年間放置されます。そのように、ほぼ毎年耕作地を変えていくことによって、生態学的に、また環境的にもバランスが取られてきました。ただし、CHTの諸民族が焼き畑以外の耕作方法を知らないと言うわけではく、カルナフリ川周辺を中心に平地では定着農業も行われてきました。バングラデシュ政府と国際開発機関は彼らの焼き畑を目の敵にして、一方的に”低レベルな農耕”と決めつけ、焼き畑民を定住させる計画を進めてきました。それが、1979年から93年まで続いた「高地再定住化計画」としてアジア開発銀行の支援の元に行われてきた計画です。その結果、CHTではゴムのプランテーションと果樹園が作られ、多くの人たちが軍によって追い立てられるようにして「強制収容所」と言われる「集団村」に移住させられ、低賃金労働者として働かされるようになりました。

| ホーム | What' New | 活動案内 | CHTニュース | レポート | 編 集 | 用語集 |
| サイトマップ | 関係資料集 | 自然 | 民族 | 歴史 | 年表 | 写真 | リンク|