BACK          HOME
 
 
   ▼ はジュマ民族への虐殺事件を示しています。

 

  
チッタゴン丘陵地帯 バングラデシュ
    紀元前262年、アショカ王が仏教を伝える。分裂王国の時代が続き、4世紀になって独立王国が誕生する。

8世紀から12世紀、パラス王国の時代が続く。

14世紀 Sawngma(チャクマ)王Marekyajaがアラカン丘陵からチッタゴン地帯に来て、統治が始まる。 1342、シャムスディン・イリヤース・シャーが即位し、ベンガルはデリー・サルナット王朝から独立。
15世紀頃から19世紀中頃 各民族がビルマ(ミャンマー)、コックスバザール周辺など周辺平野部からCHTへ徐々に流入。 1612年ダッカがベンガル州(スーパー)の首都となる(1704年まで)。17世紀初頭、ムガル帝国に併合される。

18世紀後半、イギリス東インド会社が覇権を握る。

1666 ムガル帝国が接触を始める。後にベンガルとの商取引のためにムガル帝国への年貢開始。  
1715    
1715−1760 チャクマ王Jalal Khanが、ムガル太守(Nawab)と条約を結ぶ。CHT独立王国時代。  
1724 Jalal Khanが年貢の支払いを拒否。そのためムガルの攻撃を受けて敗退しアラカンに逃げる。その年に帰ってきて間もなく逝去。  
1737 ムガル帝国、Shermust Khan王にCHTへの権限を委任。以降、1900年までチャクマ首長"Dewan"の統治が続く。  
1760 ムガル太守Mir Qasim Ali Khanがイギリス東インド会社にCHTの徴税権を割譲。イギリス東インド会社への納税が始まる。 イギリス東インド会社がベンガルを併合。東方への軍事侵攻を開始。
1777 Shardaulat Khan王が納税を止める。東インド会社、CHTに占領軍を派遣。これは、失敗に終わるが以降断続的な戦闘が繰り返される。  
1785 戦争状態終結。  
1787 チャクマ王Jan Baksh Khanが東インド会社に忠誠を誓い、完全にイギリス支配下となる。同時にイギリスはCHTの行政に介入しないことを誓約。  
1860 6/20イギリス植民地政府が丘陵地帯をチッタゴン地帯管区から分離し、チッタゴン丘陵地帯としチャクマ、トリプラ、マルマの首長(Rajas)を認証し、その監督権を認める。  
1861 議会がインド評議会法を可決。これにより、CHTが「治外法権地域」なる。  
1870 インド政府法通過。CHT「特別エリア」となる。  
1881 辺境警察条例制定。丘陵民による警察軍が誕生。  
1889 地区評議会条例制定。3首長に徴税などの裁量権を認める。  
1900 5/1 1900年CHT条例制定。外部からの入植と永住、丘陵民以外の土地購入を禁じる。3首長が管轄する3地域に行政を分割  
1920&1925 1900CHT条例がCHT人民の安全と繁栄に関する改訂がなされる。  
1946    
1947 国境線画定委員会委員長Cyril Radcliffe卿がパキスタン領とすることを一方的に決定。

8/15〜20 CHT全民族会議が東パキスタンへの編入を拒否する決議を採択。インドへの編入を要求。インド国民会議マハトマ・ガンジーら指導者にCHTのインドへの帰属を嘆願。

8/17パキスタン領となる。

8/20 パキスタン軍、CHT到着。パキスタン国旗を掲げる。

イスラム国となるため、ヒンズー教徒が大挙してインドに流出。

8/14 パキスタン・イスラム共和国独立。イギリス植民地支配からの解放。東ベンガル州は東パキスタン州となる。この直後からベンガル語公用語化運動が始まる。

1848 パキスタン、ジュマ民族への疑念から1881年辺境警察条例を撤廃。数千人のジュマがインドへ流出。パキスタンに対する国際的圧力が高まり、政府はCHT1900年条例の遵守に同意する。 2月 制憲議会でリヤーカト・アリ・ハーン首相が「公用語はウルドゥー語以外あり得ない」と主張。
1949   6月 与党ムスリム連盟に対抗して、アワミ(人民)・ムスリム連盟結成。(55年10月、アワミ連盟に改称)
1950 パキスタン政府、CHT条例を破り約100家族のイスラム教徒をナニアチョル、ランガドゥ、バンダルバンに入植させる。 9月、制憲議会基本原則委員会が中間報告でウルドゥー語を国語とすることを明記。
1952   2/21ベンガル語公用化運動支援集会参加のダッカ大学生4人が警官隊の発砲で死亡。計12人死亡。
1956 最初の憲法でCHT1900年条例を承認。  
1957-1962 カプタイ発電ダム建設。CHTの耕地の4割を湖底に沈め、約10万人が家と土地を失う。内約4万人が難民としてインドへ、2万人がビルマのアラカン地方に流出。  
1962 パキスタン政府はCHTの支配のため、「治外法権地域(Excluded Area)」から「部族民(Upajati)エリア」に変更。  
1964 インド政府、2万人のジュマ難民をフロンティア州(現アルナチャル・プラデッシュ州)に入植させる。  
1966   2月、アワミ連盟が6項目要求で東パキスタンの自治権を主張。このため、アガルタラ陰謀事件でムジブル・ラフマンが逮捕される。
1970   12月 初の民主選挙でアワミ連盟が東パキスタンのほぼ全ての議席を獲得。
1971 12/5 パキスタン軍CHT撤退。14人の先住民が解放軍兵士に殺害される。 パキスタンによる大規模な弾圧と虐殺が始まる。(数百万人が死亡)

3月16日、現Ramna公園で民族方向集会、独立を宣言。

4/13 臨時政府樹立。

12/3 パキスタンとインドの戦闘開始。

12/16 パキスタンの降伏でバングラデシュ独立。

1972 1/29 ムジブ・ラフマン、ジュマ民族に政府の仕事を割り当てることを約束。

2/15  チャクマ首長、ムジブ・ラフマン首相にCHT自治に関する4項目の声明書を渡す。 バングラデシュ軍、CHTの村落を攻撃。数千人が殺される。

4/24  Manobendro Narayan Larma(M.N.ラルマ),4項目宣言をバングラデシュ憲法起草委員会に提出。

6/24  M.N.ラルマ自治権回復を目的にPCJSSを結成。

 
1973 総選挙でM.N.ラルマとChai Thowai Rowazaが議席を獲得。  
1975 8月 ムジブル・ラフマン暗殺の影響でM.N.ラルマが地下に潜り、先住民族の武装組織シャンティ・バヒニを結成する。 8/15 ムジブル・ラフマン首相暗殺クーデター。ジアウル・ラフマンが実権を掌握。戒厳令発令(’79/4/6まで)。バングラデシュ、軍事政権期に入る。
1976 CHT管区司令官を議長とするCHT開発委員会が設置される。CHTの土地を没収し、ベンガル人を入植させる計画を立案。

5/29 軍駐屯地へシャンティ・バヒニが猛攻撃。この後、政府はCHT先住民5人に対し一人の兵士を駐留させて対抗する。(陸海併せ10万人以上)

 
1979 4月 Kanungopara大虐殺 25人殺害、80軒放火される。  
1980 3/25  Kalampati大虐殺。軍はジュマをお寺に集めた後、銃撃。300人死亡。

4/25 Upendra Lal Chakm議員ら、記者会見で3項目の要求。

5/30 Balkal大虐殺 女性・子供を含む110人が、治安軍と国境警備隊に虐殺され、女性の多くは強姦後に殺された。

 
1981 6月 マティランガータバルチョリ大虐殺 約500人死亡。  5/30 ジア大統領、チッタゴン市でモンジュル少将に暗殺される。
1982 7/27 エルシャド将軍がジュマリーダー3人と会見

1982年10月24日 PCJSSがMahabendra Narayan Larma派とPriti Kumar Chakma派に分裂する。

3/24 エルシャド将軍大統領就任。戒厳令発令。
1883 10/3 エルシャド政権、JSSと政府の間でCHT危機に関する包括的交渉の開始を提案。CHT開発5年計画を立案。その一方で、Priti派によるM.N.ラルマ暗殺を先導。

11/10 ラルマ派 シェルの石油探査員5人を誘拐。

 
1984  5−6月、Balkal大虐殺。6〜7千人のジュマがミゾラム州に逃れ、翌2月に帰還。  
1985 6/29 Priti派が政府に忠誠を誓い、一時的な停戦。

10/21 JSSと政府の第1回和平交渉

 
1986 3月 パンチャり大虐殺 100人以上のジュマが軍と入植者に殺害され、多くの人が難民としてインドに避難。

5月初旬 マティランガ大虐殺。ジュマ男性70人以上が殺害される。

5/18-19 Comillatilla-Taindong 大虐殺 マティランガ大虐殺の後、インドに逃げようとしたトリプラ民族200人が国境警備隊に捕まり、その後、全員銃殺。

6/2、7/27 シャンティ・バヒニがベンガル人入植者を襲撃。ベンガル人が報復として多くの村を攻撃。よって、多数のジュマがインド・トリプラ州に避難。

このときの入植者は5万人に達していた。

 
1986 12/17 第2回和平交渉 政府側JSSの5項目の要求を拒否。この後、政府は3地域と個別に交渉を進める。 11月戒厳令解除
1988 8/8  Bagaichari大虐殺。軍と入植者が合同でシャンティ・バヒニとの関係が疑われるジュマの村を攻撃。

8/8-10 Hirachar-Sarbotali-Khaglachari-Pablakhali 大虐殺。この地域で100人以上が軍と入植者に殺される。

8/10 CHT管区司令官がランガマティ市役所での会合で、CHT危機は3県個別に解決させると発表。

9/15 CHT問題国家委員会がランガマティの部族民のみが自治権を要求していると交渉を破棄。

12/14〜15 第6回交渉 JSSが「地域(regional)自治」を「地方(local)自治」という用語に改める妥協を図ったにもかかわらず、交渉は決裂。

12/21 ランガマティ代表団リーダーのShantimoy Dewanが何者かに暗殺される。

 
1989 2/28 CHT3県の地方政府法が議会を通過。

5/4 JSSが選挙をボイコット。シャンティ・バヒニが副地区委員会議長Abdur Rashid Sarkarを暗殺。

5/4 Longdu大虐殺 軍、村落防衛隊、入植者により30人以上殺害、放火、寺院破壊

6/25 地方政府総選挙。JSS不参加。

 
1990   12/6 エルシャド政権崩壊。
1991    2月総選挙 BNPのカレダ・ジア政権が発足。
1992  2/2 Malya 虐殺事件 入植者によって30人が殺害される。

4/10 ロガン大虐殺事件発生。JSSによれば700人以上の住民が軍と入植者に殺害された。

5/19 ベンガル人学生組織大チッタゴン委員会が暴動を起こしジュマ民族への攻撃をエスカレートする。

7/8 BNP政権、ALの反対にも関わらずCHT地方政府を継続。

7/10  Oli Ahmed情報相を長とするたった一人のロガン大虐殺事件調査委員会が設置される。

8/1 JSSは11月10日から一方的に停戦を宣言。

11/5 JSSと国家委員会との最初の会合。

 

 
1993

11/17 ナニアチョル大虐殺。ジュマ学生の抗議デモに軍と入植者が攻撃。高名な僧侶を含む60人以上が殺される。

11/24 第6回和平会談がカグラチャリで行われる。

 
1994

2/15-22 インド−バングラデシュ政府間の難民送還協定締結に基づき、第一回目の難民397家族、1841人が帰還。

7/4 ラシッド・カーン・メノンを議長に和平会談小委員会が設置される。94年中に4回。

7月 第2次難民送還−684家族3,345人 以降、リハビリテーションの約束が守られていないとして難民組織は送還を拒否。 

 
1995    
1996 6/12 丘陵女性評議会リーダー Kalpana Chakmaが軍に拉致される(未だに行方不明)。

9/10 シャンティ・バヒニが木こり28人を殺害。武装した政府のスパイが木こりに紛れ込んでいたため。

9/30 JSS、政府との交渉促進のため一ヶ月間の停戦継続を約束。政府、問題解決のため国家委員会を設置。

6/12 バングラデシュ総選挙投票日

6/23 アワミ連盟(AL)が勝利 シェイク・ハシナ政権が発足

6−10 アワミ連盟政権下でCHT和平のための国家委員会が12人のメンバーで設置される。

1997

3/28-4/7 アワミ連盟政権になって初の難民帰還実施。1,247家族6,708人。

9/14 JSS議長Jyotirindriyo Bodhipriya Larma,別名 Shantu Larmaが紛争始まって以来初めてダッカを訪問。

9/18 シェイク・ハシナとサンツ・ラルマの話し合いの結果、紛争終結のための和平協定案を発表。

10/8 トリプラ州難民キャンプからジュマ難民が帰還準備のために公式訪問。

11/16 第7回和平交渉

12/2 和平協定締結

10/14 BNPカレダ・ジアがインドにCHTを引き渡す陰謀を企んだとして政府を告発。

10/17 ハシナ首相、軍を撤退させないとBNPに保証。

10/18 食料農業大臣Matia Chowdhuryが野党リーダーを「CHT問題の解決を引き延ばした」と告発

1998

2/10 和平協定に基づくシャンティ・バヒニの武装解除が始まる。

2/27 ジュマ難民の帰還が完了。94年以降、1万2383世帯6万3861人がトリプラ州難民救援キャンプからCHTに帰還した。

3/5 シャンティ・バヒニの兵士1947名、銃876丁その他の軍需品の引き渡しが完了。兵士一人に市民生活に戻るための資金として5万タカ与えられる。

 
1999  5/27 ランガマティにて丘陵評議会発足の記念式典が行われた。PCJSSが丘陵地域内議会の枠組みに同意し、サンツ・ラルマが21日に議長職に就任。 4/1 シェイク・ハシナ・バゼド首相が1998年度ユネスコFELIX HOUPHOUET-BOIGNY平和賞の受賞者に決定。
2000 

BACK          HOME

Copyright (c) 1999 ジュマ協力基金 Japan CHT Committee
jcchti@alles.or.jp