チッタゴン丘陵地帯の歴史 1
<はじめに>
ここではチッタゴン丘陵地帯の先住民族=ジュマ民族の置かれてきた状況を簡単に振り返り、その後、CHTに関する歴史を少し細かく見ていきます。
他に訳文で「チッタゴン丘陵地帯侵略の歴史」という侵略史を簡単にまとめたものがあります。といってもCHTの歴史そのものではなくトリプラ王国、アラカン王国の両者に加えてスルタンの権力がチッタゴン地方の支配を巡って争い、CHTの支配権あるいは宗主権がいかにころころ変わったかをまとめた文章です。ごく短いものです。→読む
バングラデシュ独立前後
1997年12月2日、バングラデシュ政府とPCJSS(丘陵民族統一党、以下、JSS)との間で和平協定が結ばれ、チッタゴン丘陵地帯(CHT)に一定の自治権が保証されるとともに、同地域の非軍事化が図られることが決まりました。ジュマ民族はバングラデシュが独立時から軍事的な脅威にさらされてきました。1971年12月16日にバングラデシュが独立すると、パキスタン軍を追ってきた解放軍=Mukti Bahiniは、「イスラム教徒にならないならマルマはCHTから出ていけ」とパキスタンに肩入れしていたマルマ族のRaja(王)を市場で引き回し、殴る蹴るの暴行を加え見せしめにしました。年が明け、現在、帰還難民協会の代表をしているウペンドラ・ラル・チャクマ氏などがCHTの自治権を求めて、独立運動の指導者で初代首相のシェイク・ムジブル・ラーマンの事務所を訪れると、「もう部族民はいない。みんなベンガル人だ。君たちもベンガル人になりなさい」と、CHTの人々の要求を退けました。これが、パキスタン時代、東パキスタンの自治権とベンガル語の公用化を求めて闘ってきた同じ人物から発せられた言葉だったのです。彼らは椅子も勧められず、会見はわずか数分でした。
その後間もなくして、政府はCHTに警察軍、空軍を含む軍隊を派遣して、村々を襲撃し先住民族からの要求に暴力で応えます。このときの攻撃で少なくとも千人以上の人々が死んでいます。CHTの多数はバングラデシュ独立を支持し、青年達は武器を取って共にパキスタンと闘ったのです。しかし、チャクマやマルマの王がパキスタンを支持したために、ジュマ民族自体が憎しみの対象になってしまったのです
バングラデシュの独立闘争は残酷で悲惨な戦いでした。多くの指導者や知識人を含む活動家・学生・一般市民がパキスタンによって暗殺され、非合法に処刑されました。その数は3百万人に上ると言われます。独立前の東パキスタンは西パキスタンの国内植民地でしかなく、援助や富の多くが西に持って行かれてしまい、バングラデシュは独立直後から飢餓に苦しみました。世界中の同情がバングラデシュに集まっているさなか、バングラデシュ軍はチッタゴン丘陵地帯を暴力で蹂躙し始めたのでした。バングラデシュの指導者は公然と少数・先住民族に対して自らの独立の理想とは相容れない、「ベンガル人、イスラム教徒にならないならお前達はバングラから出ていけ」という言葉を繰り返しました。しかし、本音は「丘陵民はいらない。土地だけが必要なのだ」(1977年12月26日、CHT地域軍司令官Maj.
Gen. Manzurの発言)と言うことだったのです。
抵抗運動
シェイク・ムジブル政権はCHTのベンガル化促進と土地を与えるために、平地のベンガル人40万人をCHTに開拓移民として移住させる事を計画します。CHTの人々はパキスタン時代より前から平野部からの入植に反対して闘ってきました。そのため、当時のCHT人口の9割以上は先住民族=ジュマ民族が占めていました。しかし入植計画は、遅くない時期にジュマ民族がCHTでも少数民族となり、民族としての文化も誇りも、そして土地も失って滅んでしまう事を意味したのです。
ジュマ民族は、1960年前後のカプタイ発電ダムの建設で大きな悲劇を体験していました。ダム建設によってCHTの人口の4分の1以上の人々が家と土地を失い開発難民となったのです。多くの人々はインドへ、ビルマへと生活の場を求めて避難しました。残った人々はバラバラにされ、引き裂かれました。
ジュマ民族にとって、平野部のイスラム教徒ベンガル人を受け入れることは耐え難いことです。間もなく、彼らは武器を取ってバングラデシュの同化政策と入植政策に反対し、自決権を求める闘いに入りました。バングラデシュはこれに大規模な軍隊を置くことで対抗します。入植を進め、その入植者達にも武器を与え力ずくで土地を奪うことをそそのかしたのです。そして、特に80年代にはいると、先住民族の抵抗組織であるシャンティ・バヒニ(平和部隊という意味)の捜索と称して、軍が多くの村々を焼き払い、人々を虐殺する作戦が展開されて行きます。その結果、あるベンガル人研究家の調査では、直接殺害された先住民の人数は和平協定締結までに3万人以上、ベンガル人が軍人を含め三千人弱だといいます。
世界の関わり
国際社会は決してこの状況を座視していたわけではありませんが、しかし、北ヨーロッパの政府を除くと見て見ぬ振りをしていたとしかいえません。特に最大の援助国である日本は、CHTのプロジェクトに直接援助することはないにせよ、その半面、CHTで起こっている大規模な人権侵害を特に問題ともしてきませんでした。また、日本が最大の出資国となっているアジア開発銀行は、CHTのプロジェクトを支援し、軍事支配の片棒を担いで来ました。
チッタゴン丘陵問題は、日本ではあまり知られていなく、確かにマイナーな問題といえます。しかしこれは、国際社会にジュマ民族の主張を代弁する、例えば東チモール問題におけるポルトガル政府やタミール問題におけるインド政府のような存在がなかったからに過ぎません。CHT問題はこうした問題と同じく、ヨーロッパによる植民地支配と大民族中心の植民地解放という負の遺産によるものであり、これは先住民族の自決権と先住権に関する問題です。
先住民族は国家に対して自由な選択が出来ます。なぜなら、先住民族は普通、近代国家が作られるとき何の相談も受けていなかったか、または、CHTのジュマ民族のようにパキスタンという国に組み入れられることを明確に拒否したかのどちらかだからです。つまり、好きでその国に属したわけではなく、いわば「侵略」されたとも言えるのです。もし、その後、新しい国で先住民族が政治的、経済的、文化的に主流民族(多数民族)と同等な権利が保障され、土地を奪われることもなく豊かで平和に暮らしてこれたのなら先住民族問題など起こるはずもありませんが、事実はこれから書くCHTの歴史が示すとおりです。CHTで起こったことは世界中の至るところで起こったことです。バングラデシュには50以上の先住・少数民族がいますが、ジュマ民族を除くと彼らは自らの土地で圧倒的な少数者となっており、殆ど何の権利もありません。CHTでは民族が団結して闘ってきたという歴史があり、そのために多くの尊い命が犠牲となってきました。現在、CHTの先住民族がかろうじて人口の過半数を越えていられるのは、その犠牲があっての上です。
こうしたことから、先住民族は、国家からの独立か、自決権・先住権を享受する高度な自治の建設か、それとも文化的アイデンティティが保証された民族集団として生きるか、または、先住民族としての特別な権利を放棄してその国の主流に統合するのか、自由に選ぶ権利があります。ただ言えることは、どの道を選ぶかは彼ら自身である以上、その前提として自決権が完全に回復していることが必要です。
それでは、ジュマ民族の歴史を具体的に見ていきましょう。
1.植民地解放前夜まで
チャクマ王の時代
今ではジュマ民族として知られるチッタゴン丘陵地帯の13民族は一体どこから来たのでしょう。残念ながら手元に詳しい資料はなく、分かっているのは14世紀に現在のチャクマ民族=Sawngmaの王であるMarekyajaが40の氏族を引き連れてビルマのアラカン丘陵からチッタゴン地域に来て統治を始めた、ということです。チャクマ語はビルマのモン語と非常に近い関係があり、モン民族にそのルーツがあるのかも知れません。それ以前から、チッタゴン市は港町として栄えていました。現在も丘陵地帯の麓の村々にはビルマ系仏教徒が多く住んでいます。15世紀になるとベンガル人の増加によってチッタゴン地域の人々はその圧力に抗しきれず、丘陵地帯へと移っていきます。その当時、丘陵地帯に人々がどの程度いたのかは定かではありません。それというのも、丘陵地帯は自然の楽園で、象や虎をはじめ多くの動物が住んでいることと、厚い熱帯林に被われた平地の少ない山岳地域であることから生産性が低く、農業をするには魅力的な土地であったとは言い難いからです。従って、15世紀から19世紀半ばにかけてこの人口移動が起こったにも関わらず、それ以前に入植した民族がベンガル人を除く他の民族を排斥したという記録は見あたりません。こうした状況はアジアの至る所で見られます。
16世紀半ばを過ぎると当時インド亜大陸を支配していたムガル帝国が接触を始めます。それ以前から、CHTは好んでイスラム名を名乗るチャクマ・ラジャ(Raja=王)が統治していました。ベンガルは1201年からイスラムの王朝に支配されており、チャクマのエリート層もその影響下にあったと考えられます。
記録によるとベンガル商人から魚の干物、鶏、塩、たばこ、黒布などCHTにないものを入手するためチャクマ王はムガル帝国に「自ら進んで」貢納するようになります。この関係は1715年に条約として結ばれ、ムガル帝国はCHTを独立王国として認証するとともに、CHTの「徴税権」を得ます。チャクマ王が年貢を綿で支払ったことからCHTはKarpas(綿)地域と呼ばれました。しかし、その10年後、条約の当事者であったチャクマ王Jalal
Khanが税金の支払いを拒否し、ムガルDewan(徴税人)Kishan Chandの攻撃を受け、アラカン丘陵に逃走するという事件が発生します
1737年になるとムガル帝国はShermust Khan王にCHTに関する権限を委任し、Dewanの称号を与えます。これは、ムガルに支払う税を自ら自由に決められる権限です。これにより、CHTは王国としての実質を確立します。
植民地時代
イギリスによる植民地支配はCHTについて言えば比較的緩やかなものでした。そうなった理由は辺境の丘陵地帯という地理的な要因ばかりではなく、植民地支配への抵抗があったからです。 1760年、ムガル帝国のベンガル太守Mir Qasim Ali Khanがイギリス東インド会社にCHTの徴税権を割譲しました。そのためCHTから東インド会社への納税が始まりました。しかし、1777年になってその支払いを拒否したため、東インド会社はCHTにシパーヒー兵(ウルドゥ語で軍・兵士。イギリスの傭兵)を送り、武力でねじ伏せようとしました。しかし、この目論見は失敗に終わり、以降8年間に渡って断続的な戦闘が繰り返されます。この闘いは2年間の休戦の後、87年にチャクマ王が植民地政府に忠誠を誓うことで終結。これによりCHTはイギリスの支配下に入ってしまいました。
イギリスはここで、辺境地域の植民地経営の難しさを痛感します。また、歴史家がどのように言っているのか知りませんが、少なくとも東インドの丘陵民を平野部と同様に扱うよりも、「部族民」として特別な庇護を与えた方が得策であると悟ったことでしょう。チッタゴン丘陵を含めインド北東部は独自の文化を持つ多様な民族のテリトリーであり、そこで反乱が起こっても対処できないことは8年以上に渡ったCHTとの戦争で明らかでした。そして、イギリスの植民地支配はまさにそのように展開していきます。チャクマ王の植民地政府への忠誠に条件があったことからもそうした事情が垣間見えます。その条件とは、CHTは納税はするが、一方、イギリス側はCHTの行政には一切口を出さない、というものでした。つまり、すでにこの時代の植民地下にあっても、CHTは高度な自治権を自ら獲得したのでした。それ以降に出来て行くCHTに関する法律は基本的に植民地政府の自己規制という性質のもので、CHTの人々を縛るための法律ではありません。
そして、この後、CHTへの平野部からの移住が禁止されます。
1860年、植民地政府は丘陵地帯をカルパスKarpas地域という俗称から、Chittagong
Hill Tractsという名称に変更します(このため、現在のジュマ民族運動には、CHTからジュマ・ランドに名称を変更すべきだという声もある)。この背景に、ベンガル地域からこの地域の行政を「条例外地域」として分離するという決定がありました。そして、もう一つ重要なことは、歴史的に見るとチャクマ王が統治し、外との交渉に当たって来た体制を変更して、チャクマ、モン(マルマ)、ボモン(マルマ)の3王に支配権を認め、3つの地域にCHTを分けて各王に管轄・統治させた事です。ただし、この決定がジュマエリートの声を反映した結果であるのかどうかは不明です。翌年、インド議会法が通過し、一般地域で適用される法的枠組みの外の地域(条例外地域)が認可されました。また、1870年にはインド政府法が成立し、特別地域関係の条例が修正されます。そして、1881年には、「辺境警備規則」の施行によりCHTにジュマ民族自身よる警察軍が設立されます。また、1880年までにチッタゴン地域は3区に画定され、副弁務官、弁務官補、コックス・バザール行政次官がそれぞれの地区の責任者となります。
1900年、チッタゴン丘陵地帯1900年条例(Chittagong
Hill Tracts Regulation Act,1900)が施行されます。この法律は、CHTに関する植民地時代とそれ以降を含めもっとも重要な法律です。この法律では、CHTを”完全排他地域”としました。これは、ベンガル平野など外部からの入植、永住を目的とした移住を禁じるものです。さらに、土地及び土地利用に関する条項などを含みます。この法律は後に「インド政府法1935年」に盛り込まれ、ナガランドなどに適用されることになる「完全排他エリア」という概念の先駆をなすものでした。さらにその後、1920年にCHTは「後進地域」と宣言され、統治の責任を総督に委ねることを議会が決定し、1935年のインド政府法の改正で「特別地域」と宣言され、1947年の植民地解放までこの状態が続きます。
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