CHT問題とは何か

 

チッタゴン丘陵問題とはどういう問題か

 
 

■はじめに

 1997年12月、20年以上に渡った内戦を終結させる和平協定がバングラデシュ政府とジュマ民族の政治組織PCJSSとの間で結ばれました。これによって翌年3月、先住民族の武装抵抗組織シャンティ・バヒニは武装解除されました。しかし、協定の実施は遅々として進まず、和平協定から5年を迎えた現在もCHTには大規模な軍が駐留し、多くの土地が入植者と軍に不法に占拠されている状況に変わりはなく、ジュマ民族は未だに暴力と貧困の脅威にさらされています。

 さらにこの和平協定を巡ってジュマ民族内で「兄弟殺し」と呼ばれる内紛が続いています。主に、和平協定前に公然活動を行っていた若いリーダーたちは和平協定が丘陵地帯の「完全なる自治」を約束するものではないことに反発して丘陵人民民主戦線(UPDF)を結成し、PCJSSと敵対する軍事的・政治的な活動を97年暮れから開始しました。彼らの武装活動はもっぱらPCJSSの活動家に向けられ、丘陵地域では誘拐と殺人が頻繁に行われるようになりました。

 バングラデシュ軍と一部の政府組織は丘陵地帯の治安悪化と開発の停滞を目的として民主戦線側を支援していると、JSS側は訴えています。実際、2001年の総選挙の時に民主戦線の代表であるプロシッド・ビカシュ・キシャは大規模な軍のキャラバンとともにチッタゴン市からカグラチャリへと凱旋し、軍の支援を受けて選挙に立ったことを人々に強く印象づけました。

 チッタゴン丘陵地帯の平和と発展を望まない人々、特に政府や軍にとってジュマ民族の内紛と治安悪化は

■ジュマ民族とは


 ジュマ民族−この聞き慣れない言葉は、実は一つの民族集団を表す言葉ではなく、チッタゴン丘陵地帯に先祖伝来暮らし、各々固有の文化を持つ13の民族の総称です。ジュマ(Jumma)の語源は「焼き畑」を表す"Jhum"です。かつてこの言葉は、ベンガル人たちによって、CHTの焼畑民を差別する言葉として使われてきたと言います。しかし、彼らは民族解放運動の中で、CHTすべての民族を統合する共通の基盤が「焼き畑」にあるという認識に立ち、自ら“ジュマ民族”と名乗ったのです。政府は、現在も“ジュマ民族”という呼称を認めていません。これは、常にCHTの民族を分断する政策を採ってきた政府にとって、ジュマ民族の団結を最も恐れているからかも知れません。

■ロガン集団村大虐殺事件

ここで、和平協定が締結されるまでの過去25年間、CHTの人々が受けてきた苦しみの一端を示したいと思います。

 1992年4月10日、ロガンという集団村で大規模な虐殺事件が発生しました。事件の概要は、「ベンガル人入植者のある青年が集団村に行き、若い女性を強姦しようとして襲い、反対に鉈で斬りつけられ重傷を負った。これに怒ったベンガル人たちは手に手に銃やダオ(蛮刀)を持って、集団村を襲撃。治安軍と武装警察がベンガル人に加勢し、多くの住民を殺害。あげくの果ては、特に女性、子供、老人など逃げ遅れた人々を家に押し込め、鍵をかけて放火。その結果、700人以上の住民が焼き殺された。生き残った人々は、村から逃げて国境を越えてインド・トリプラ州難民キャンプに避難した」というものです。
 この恐ろしい事件は国際的に大変な反響を呼び、当時のカレダ・ジア政権に批判が集中しました。写真は虐殺・放火事件の跡です。

ロガン大虐殺事件の現場

■集団村とは

 この事件の背景には一体何があったのでしょう。まず、”集団村”とは一体何でしょうか? 「集団村」には、入植者のための開拓集団村と、焼き畑の民であるジュマ民族を近代的な定着農業につかせるために一カ所に集めた「集団村」がありました。ゴムや果樹のプランテーションで働かせる開発プロジェクトの一環として考えられたものでした。このプロジェクトとは1979年からアジア開発銀行の融資によって行われた「高地再定住計画」です。この「集団村」政策は国際的な批判を受けて94年頃、制度上廃止されたと言われています。

 では、ジュマ民族が入れられた「集団村」の実態はどうだったのでしょうか? ロガン村の場合は、ジュマ民族の武装抵抗組織であるシャンティ・バヒニ(平和部隊)から人々を隔離し、軍の監視下に置くために周辺の25ヶ村から住民を強制的に集めて作った村です。そうした集団村はCHT内の至る所にあり、常に軍の監視され、出入りもチェックされていました。こうした開発プロジェクトと称する計画が、政府による先住民族の反乱防止プログラムの一環として治安軍が実施し、これに開発援助(アジア開発銀行の援助)が与えられていたのです。慣れ親しんだ村から無理矢理引き剥がされた人々の土地はどうなったでしょう。多くは、ベンガル人入植者たちに分け与えられました。

■入植政策

バングラデシュが1971年に独立してまもなく、政府は、CHTに40万人の入植計画を発表しました。イスラム教徒のベンガル人を多数入植させることで、チッタゴン丘陵地帯をバングラデシュに統合しようとしたのです。チッタゴン丘陵地帯はバングラデシュの面積の1割を占めています。しかし、言うまでもなく熱帯雨林の丘陵地域の生産性は低く、丘陵地帯は少ない人口でようやく自然とのバランスを保ってきたのです。加えて、東パキスタン時代の1962年に完成したカプタイ発電ダムによってCHTの最も肥沃な土地は湖底に沈み、10万人の住民が強制移住させられ、半数が難民としてインドに流出し、残った人々の多くも半ば難民化していました。その地域に、先住民族とほぼ同じ入植者を送るという入植政策の真の目的は、独立を指向する先住民族を人口的に少数にして先住民族を完全に封じ込め、政治的・文化的に”抹殺”する事でした。「イスラム教徒にならなければCHTの部族民はいらない」というかつてある政府高官が言った言葉はそのことを象徴しています。また、軍の高官も「チッタゴン丘陵の人間はいらない。土地だけがほしいのだ」と言っています。従って、バングラデシュ政府の本音は、異教徒異人種であるジュマ民族のエスノサイド=文化的抹殺にとどまらず、民族根絶にあったと考えて間違いないと思います。大規模な入植政策はその第一歩です。

■抵抗

 一方、CHTの先住民族は1947年当時から、東パキスタンというイスラム国家に組み入れられることに猛然と反対してきました。パキスタン時代から入植者に土地を奪われることを阻止してきたのです。それは、彼らは元々、イギリス植民地以前から固有の社会と文化を育んできたからです。そして、外部から支配しようとするイギリス植民地政府などとの戦闘を通じて、屈服することなく独立した地位を保って来ました。ジュマ民族が自ら進んでパキスタンやその後のバングラデシュに統合したのではなく、国家による「侵略」の結果として、あるいは一方的な裁定によって組み入れられたに過ぎません。それゆえに、彼らは自分たちを先住民族であると主張しています。

 ジュマ民族は入植政策に反対し、自決権を求めて、政治組織であるチッタゴン丘陵民族統一党(JSSまたはPCJSS)を1972年に組織し、73年には武装部門であるシャンティ・バヒニを結成し、抵抗しました。これに対して、歴代のバングラデシュ政権は大規模な軍を駐留させることで対抗したのです。

■軍事化

 ロガン村大虐殺事件が起こった当時、CHTの人口は約100万人で、先住民族はその6割弱でした。一方、CHTに駐留している治安軍、海軍、国境警備隊、武装警察、そしてアンサルという日本の屯田兵の様な部隊を合計すると、何と12万人もの兵士がいました。先住民族5人に対して1人の兵隊です。加えて、軍はベンガル人入植者の自警団である「村落防衛隊」に武器を渡して彼らに悪逆非道を行うよう仕向けてきました。

 バングラデシュの歴代政権はこのような、大規模な軍事支配によって、CHTという地域を支配していたのです。これは、「軍事化」と呼ばて、インドネシアやインド、ミャンマー(ビルマ)など少数・先住民族に対して敵対的な政策を取る国家によって継続されている政策です。また、驚くべき事にCHTの開発の最高責任者はCHTを管轄する軍の最高司令官でした。これは、軍事政権下のみではなく、文民政府であったカレダ・ジア政権時代も変わりませんでした。

ディギナラ虐殺事件

■虐殺と追い出し

 では、軍は実際にはどのようにCHTの住民を支配しようとしたのでしょうか? 答えは、「虐殺と追い出し」です。入植者達と組んで仕掛けるか、シャンティ・バヒニの捜索を理由にするかはともかく、ベトナム戦争で見られたように、村を焼き払い、人々を追い出すのです。80年代は特に酷く、大きな虐殺事件だけで10件以上を数えました。その結果、国境を越えてインドのトリプラ州の難民キャンプには7万人以上の人々が逃れていったのです。

 バングラデシュ政府はその間、シャンティ・バヒニが独立を目的にベンガル人や軍人を殺害していると盛んに宣伝しています。そうして、テロ対策として村々を探索しているのだ、と国際社会に納得させようとしてきました。しかし、これは二つの点で嘘でした。一つは、先住民族側は独立の要求を早い時期に取り下げ、変わって自治権と入植者の撤退、及び非軍事化を要求として掲げていたのです。また、もう一つは、両者のコミュニティー間で被害者の数は圧倒的に違うということです。あるベンガル人の研究者の集計では、過去20年の内戦でベンガル人の死者は多く見積もって2,000人程度であるのに比べて、ジュマ民族は3万人以上殺されたという数字をあげています。

■結び

 ロガン村大虐殺事件は、このような背景で起こりました。以上述べたことは単に軍事面に過ぎません。かつて、大日本帝国がアイヌ民族に行ったように、皆殺し政策にはジュマ民族の「貧困化」政策が含まれます。端的に記すと、国家はジュマ民族から土地を奪い、移動の自由と商取引の自由を奪ったのです。また、文化行事、宗教行事その他家庭生活まで管理しようとしました。
 1990年12月、エルシャド軍事政権崩壊の間隙をついて「チッタゴン丘陵委員会」という国際人権組織がチッタゴン丘陵地帯とインドの難民キャンプを調査しました。その報告書の題名は"LIFE IS NOT OURS"。−「生命、生活、そして人生さえ私たち自身のものではない」。そんな意味がこの言葉には込められています。

 1994年11月から始まった政府とシャンティ・バヒニの停戦、そして97年12月2日の和平協定締結。しかし残念ながら、CHTが正常化し平和になったというには、まだ、ほど遠い状況にあります。軍と入植者が撤退しない限り、バングラデシュの政変、CHT駐留軍の動向いかんでは再び内戦が再開する危険性も孕んでいます。 
 人々が本当に人間らしい暮らしを回復し、自分の人生を生きることが出来るようになること、これこそジュマ民族の望みであり、また、ジュマ民族を支援するすべての人々の願いでもあります。

 

(1999年6月改訂)

 

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