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◆1999年3月〜6月のニュース
■ 6月22日 米国、CHT開発へ資金提供の可能性大 John C Holzman 駐バングラデシュ米国大使は本日、米国政府はCHTでの開発活 動への資金協力の提供に関心を持っていると述べた。(ランガマティ発BSS) 大使は、CHTを5日間訪問した折りCHT地域議会議長Jyotirindra Bodhipriyo Larma 氏と彼の事務所で懇談した。 ラルマ議長は、CHT和平協定の実施、帰還難民及び域内難民のリハビリテー ション(生活再建)、土地紛争と土地委員会の体制及びNGOの活動について米 国使節に説明した。 彼は大使に対して、米国がCHT開発に喜んで協力すると表明していることに感 謝していると伝えた。(The Daily Star 19990623) ■ 6月22日 丘陵未亡人団体、生活再建要求の実現に向けて カグラチャリ発 Shuvra Jyoti Chakma ある女性が、2人の息子のことでとても困って いる。「どうやって息子達を教育すればいいの?」と、彼女は不満をぶちまけ る。彼女の名前は、マノシ・チャクマ(35歳)。9年前に未亡人となった。 夫であるアマル・ビカシ・チャクマはディギナラ郡(Tana)Babuchharaの村 落防衛隊のメンバーだった。当時のシャンティ・バヒニのゲリラ達は、アマル ・ビカシ・チャクマをバングラデシュ政府のスパイだと考えていた。マノシは The Daily Starの記者に次のように言った。「ある夜、シャンティ・バヒニ の兵士が家を取り囲み、主人を呼び出した。そしてゲリラ達は、無抵抗の主人 を撃ち即死させた」。さらに、「1997年にその事件が起こって以来、私は惨め な生活を送っている」、と付け加えた。(訳注:1997年は恐らく1992年の間違 い。村落防衛隊はベンガル人入植者が組織している自警団) マノシ・チャクマはその事件以来、収入源がない事も明らかにした。「誰も助 けに来てくれなかった。住む家すらない。今息子達と暮らしているが、むごい 生活を送っている。地酒を売ってわずかなお金を稼いでいる。」と、教えてく れた。(注:ここでいう地酒はチャクマの酒で、米から作る焼酎の事) ここには、マノシ・チャクマのようにCHT危機の時代に夫を亡くした女性がた くさんいる。彼女達の多くが母方の親族と暮らしている。 ディギナラ郡を訪れた時、チコンヤ・チャクマ(45歳)という名の未亡人 が、記者に言った。「私の主人はビンドゥ・チャクマといって、カグラティリ の地方行政議会の前議員だったビバクナンダ・チャクマの家で働いていた」。 チコンヤ・チャクマは続けた。「ある夜、シャンティバヒニの兵士はビバクナ ンダを殺すため、家のそばまで来て射撃した。しかし、彼は、私の夫がその場 で殺されている間に逃げてしまった。」 彼女は、4人の娘と共に長い間人並みの生活を送っていないと言った。「収入 源がなく、家すらない。今、ディギナラのバラダム村のお寺に身を寄せてい る」 もう一人の未亡人であるカロラニ・チャクマ(36歳)は、ビベコンドラ・ チャクマ殺害計画後、夫のパゴナ・チャクマは陸軍兵士によって叩き殺されて しまった、といった。このことは、つまり陸軍兵士が彼女の夫をシャンティバ ヒニのスパイだと思っていたことを意味している。 その後、陸軍は、彼女に夫の火葬代として6000タカを支払った。彼らはま た、彼女の息子が高校卒業試験を受けることのできるレベルまであげるための 勉強の再開を保証した。しかし、保証は継続されなかったと彼女は付け足し た。彼女の夫は1989年に殺された。 マヤ・ラニの夫は、シャンティ・バヒニのメンバーだった。彼は、1982年 シャンティ・バヒニ内の2つのライバル勢力の銃撃戦で亡くなった。当時、 シャンティバヒニはLamba(ラルマ派)とBattya(プリティ派)の2つに分裂して いた。 マヤ・ラニ・チャクマは記者に対して、自分の夫はラルマ派の支持者だったと 言った。「私は、約3ヶ月前サンツ・ラルマと会った。彼は援助を保証すると 言ってくれただけだった」とも語った。 シャシ・ラニ・チャクマ(40歳)は1986年インドに逃れていた時、夫の バトヤ・チャクマを入植者に殺されたと言った。彼女は、入植者によって潰さ れた片目を記者に示しながら話した。彼女は金銭的問題のため息子達に教育を 受けさせる事ができないと言う。「私はまた、息子の一人を牛飼いにするため 他人に渡してしまった。」 CHT危機の時に夫を亡くした女性の数は正確にはわからない。しかし多くの 未亡人が大変な思いをして生活をしている事は事実である。 先住民族と非先住民族双方のコミュニティの女性がCHT危機の間に夫を亡く している。 ところで最近、未亡人たちを組織して11人からなる委員会が結成された。委員 会の名称は「丘陵未亡人福祉協会(Hill Widows' Welfare Association)」で ある。リーダー達は最近、Biskaka Chakmaを議長に総会を開催した。 総会の参加者は、政府とPCJSSとの和平協定調印にも関わらず、戦争未亡人の リハビリステーション(生活再建)が放置されたままである事を、悲嘆の中話 し合った。 彼女らは、「私達はその日暮をしている。無力で社会的安定性を得ていない子 供達のために、食糧、衣服、教育を必要としている。」 協会は今、CHT危機で未亡人となったすべての女性達の名簿作りをしてい る。協会の広報担当によると、先住民族だけでなく入植者も含め、現在わかっ ている未亡人の数は506人にのぼる。 最近、協会の代表者達は未亡人の6項目要求の実施を求めて、首相、野党国民 党党首、CHT担当大臣、そして丘陵地域議会議長に計4通の覚書を渡した。 6つの要求は次のとおりである。 ・手織り機の事業を始めるために500万タカの援助 ・被害を受けた家族それぞれに5万タカの援助金支給 ・各家族に1年間無料配給の実施 ・未亡人の子供達に対する雇用機会の提供 ・未亡人の子供への奨学金支給 ・すべてのメンバーに定住地として5エーカーのカース地の支給 協会代表は取材の間、夫を失った女性への援助を訴えた。(DS 19990623) (訳注:カース地は主に焼畑の跡地。中央政府が保有・管理している) ■ 1999年06月04日 暫定Chittagong丘陵地域評議会、1998/99年度予算を承認 ■ 1999年06月04日 CHT産パイナップル輸出開始 ■ チッタゴン丘陵地域議会、予定通りスタート PCJSS対外広報部よりチッタゴン丘陵暫定地域議会の発足を知らせるメール が届きました。 5月27日、ラガマンティ県にある民族文化協会会館で、至上の喜びの中、長 い間待ち望まれたジュマ民族によるチッタゴン丘陵地帯(CHT)地域議会が、大 祝典と共に正式に発足したことをお伝えでき、大変嬉しく思っています。 CHT地域暫定議会の22人のメンバーのうち21人は、CHT地域議会の発 足の前日(議長の就任に先立って)5月26日、就任した。 外交使節団、国際開発機関、すべてのジュマの共同体を含めて、少なく とも4000人が、地域議会の発足式典に出席した。 しかし、不可解なことに CHT省のKalpa Ranjan Chakma大臣以外、どの大臣 もその式典に出席しなかった。 平和条約に反対するCHTの中の二つの団体が、CHT全域に全日ストライキを呼 びかけた。しかし、3つの丘陵地帯から何千もの歓喜に満ちたジュマの人々 が、彼ら自身の目でその式典を見るためにラガマンティ町に押し寄せたので、ストライキの呼びかけはほとんど式典に影響を与えなかった。 一方、国の代表的野党 カレダ・ジア前首相のBNP=バングラデシュ民族主義 党と4野党連合は、この日を「暗黒の日」と主張して全国的にCHT地域議会の 発足式典に抗議するデモへと至らせた。 発足式典でCHT地域議会議長に就任したPCJSS代表Jyotirindra Bodhipriya Larma(サンツ・ラルマ)氏は、CHT和平協定を直ちに実行に移すために国内と
海外双方のからの全面的援助と協力を求める、と演説をした。 ラルマ氏は政 府に、早急に不必要なすべての軍のキャンプを撤退させる事、入植計画によっ
て平野部からCHTに移住して来たイスラム教徒ベンガル人の(平野部での)生 活再興措置を直ちにとることを要求した。ラルマ氏は、『CHTの外でそれらム
スリム入植者の再定住または生活再建がしっかりと果たされることを私たちは 望む』と断言した。また、内戦の間、先祖代々の土地を離れ隣国のインドへ避
難していたジュマ難民に対しても適切な生活復興措置が取られるよう要求した。 ジュマ民族の目標への積極的な支援と全面的な援助をありがとう。 ■5月12日、PCJSS議長サンツ・ラルマはシェイク・ハシナ首相に対して、チッタゴン丘陵地域議会(RC)の受け入れと準備に取りかかることを正式に伝えた。なお、RCの正式な発足または発足式はランガマティで27日行われる予定である。 ■5月10日(月曜日)、カグラチャリでサンツ・ラルマ議長はシェイク・ハシナ首相と協議するためダッカに行く前に、CHT地域議会の受け入れを決意したことを発表した。PCJSSは同日プレスリリースを発表し、この度のハシナとの会談で、昨年JSSの同意なしに国会を通った3丘陵県議会法における協定と矛盾する条項の改正と和平協定実施を政府が保証すれば、地域議会の受け入れを最終的に決定すると表明していた。同リリースによると、2月8日のハシナ首相との会談及び3月23日、カグラチャリにおけるハシナ首相の政治顧問Dr.S.A.Malekとの会談で、CHTにおける「国家レベルのすべての開発計画」を含む和平協定に関する法/条項の実施を、政府が保証するとの確信を得たという。 ■ 4月22日、カグラチャリで警察が発砲 (独自情報) 1999年4月22日、カグラチャリでJSS支持者とUPDFが衝突し、2人が死亡、17人が負傷した。バングラデシュの新聞では衝突で死者が出たとなっているが、UPDFによると警察が発砲し、それによって多数の負傷者がでたという。赤字は死亡者。 ▽死傷者リスト 警察の発砲で死傷した人々:カグラチャリ・スタジアム敷地内(s/oはson of、d/oはdaughtr ofの略。本人 s/o 父親の名前。個人を特定する方法として公式に用いられている) 1. Biswajit Chama s/o Keshav Chandra Chakma(パンチャリ郡Harubil)左足に被弾。 スタジアム近くで死傷した人
1999年4月 CHT地域議会;来月から活動開始のもよう! The Independent-Bangladesh紙によると、PCJSS党首Jyotirindra Bodhiprio Larma 別名サンツ・ラルマ( Santu Larma)氏は、24日、カグラチャリで面会した地元記者に対して今なお活動をはじめていないCHT地域議会について、来月には活動開始が可能になると判断した、という。 地域議会の活動開始の障害となっている和平協定との"矛盾"の解決は心配いらないだろう、という。 彼は、シェイク・ハシナ首相やCHT省大臣コルポ・ランジャン・チャクマ氏との会談の後、カグラチャリ、ランガマティ、バンダルバンの3県を15日間回って地域の人々と話し合いを行ってきた。人々は、協定が実施されていない事を気に病んでおり、何よりも地域議会が活動を開始することを熱望している、と語った。 地域議会はCHTの開発、土地問題の解決、その他の広範な権限を有し、各県議会の活動を調整する機関で、ジュマ民族14名及びベンガル人6名で構成され暫定議会の議長にサンツ・ラルマ氏が就任する事が決まっている。 この地域議会の活動が開始が遅れているのは、和平協定と矛盾した条項がチッタゴン丘陵地帯4法(地域議会法及び各県の県議会法)に含まれており、また、協定で撤退が決められている軍事キャンプ約420カ所の内、10カ所しか撤退していないこと、及びJSSのメンバー11人が和平協定締結後16ヶ月たった現在も釈放されていないことなどからJSSが議長・議員への就任を拒んできたからだ。また、政府が指名したベンガル人議員3名がCHTでの選挙資格を有しない人々だったことも大きな原因であった。(要約:独自)
1999年3月 3月22日 EUは条件が満たされるまでCHTへの援助を行わず 3月22日 サンツ・ラルマと大臣の会談で大きな進展なし〜特派員より
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