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チッタゴン丘陵地帯の歴史2 東パキスタン時代
分離独立時の東パキスタン
現在のバングラデシュである東パキスタンの日本語表記は「パキスタン・イスラム共和国東パキスタン州」でした。英領インドがインドとパキスタンに分離独立することから、特にベンガル地方は大変な混乱に見舞われ、多くの人々がこの混乱で命を奪われたと言います。インドの統計では東ベンガルが分離独立でイスラム国となることと、その後の騒乱などの影響からバングラデシュ独立以前にインドへ逃げたヒンズー教徒は520万人に上ります。また、東パキスタンへのイスラム教徒の移住者はビハール地方を中心に約80万人であったと推計されています。
多くの企業家がヒンズー教徒であったこともあり、東パキスタンはマイナスからの出発を余儀なくされました。元々、東ベンガル地方でも政治経済の実権を握っていたのは当時人口の2割だったヒンズー教徒やインド人でした。ベンガリ・ムスリム(イスラム教徒のベンガル人)の近代産業の企業家は東西パキスタンで皆無だったのです。
1947年8月14日の分離独立からバングラデシュ解放前までの東の状態を一言で表すとすれば「国内植民地であった」と言うことになります。先に少し触れましたが、ウルドゥ語の強制を端的な例として、また、例えば軍人採用を身長で制限したり(独立前の東出身者の最高地位は大佐)、その他、経済活動でも差別的な状況にありました。ジュートで獲得した外貨は、主として西の工業化と軍の強化に使われ、海外からの開発援助の8割が西に使われていたのです。東は発展の機会を奪われる一方、多くの富が西側に吸い取られていたのです。なぜ、このような不平等が続いたのか。人口は東側の方が多かったのです。もともと、現在のバングラデシュは植民地時代までベンガルの一部だったのが、分割されたことにも理由があると思いますが、やはり、最大の原因はパキスタンが軍事独裁政権であったことです。元英領インド東ベンガル州の人々は独立に際してイスラム教を建国の柱とするパキスタンに自ら参加しましたが、その結果は極めて惨めなものであり、自由と解放の運動は「ベンガル語公用化」運動として進んでいきます。バングラデシュとはベンガル語、あるいはベンガルの大地という意味です。
CHTの帰属問題
一方、パキスタンの分離独立によってさらに苦しめられたのはジュマ民族でした。CHTの諸民族はすべて非イスラム教徒です。イスラム共和国に組み入れられることに納得がいくはずがありません。そのため、独立前からジュマ民族はインドへの帰属か、もしくは王国としての独立を望んでいました。その動きとして、インド国民会議派のマハトマ・ガンジーなど当時の指導者にインド領とするよう嘆願書を送り、会議派の代表もCHTを視察に訪れました。しかし、分離独立後の国境の画定はシリル・ラットクリフ卿を委員長とする国境画定委員会が握っていたのです。委員会は人々の要望を無視して、CHTを東パキスタンに組み入れる決定を下しました。この理不尽且つ不可解な決定の理由に関する史料は残念ながら見あたりません。しかし、伝聞や、地理的要因を総合すると、ベンガル州の東側の港町はチッタゴン港が唯一であり、その安定と安全確保のためにチッタゴン丘陵地帯も東パキスタンに組み入れたのだ、と言われています。しかし、いかなる理由があったとしてもジュマ民族が容認できるはずもありません。逸話を一つ紹介すると、8月14日にはあるチャクマがやけっぱちになってランガマティにインドの旗を立てたり、バンダルバンではマルマの人がビルマの旗を立てたりと、死を覚悟して抗議の意志を表しています。
CHTの帰属に関して、ジュマ民族は「チッタゴン丘陵人民協会」を組織し、すべての民族が集まった会議でこの決定を拒否し、「CHTがインドに属するか、パキスタンに属するかについては、国境画定委員会の決定にはいっさい拘束されない」という決議を満場一致で採択しました。しかし最終的にCHTは8月17日(16日?)パキスタンに組み入れられたのでした。
パキスタンの対「部族民」政策
パキスタン政府は VIS-A-VIS という二つの強力な政策をCHTに適用します。一つは、部族民の存在を許さないことであり、もう一方は、彼らを主流の民族に統合して国家形成を図ろうとするものです。VIS-A-VISは現在のパキスタンがもともと丘陵民族に採ってきた政策でした。この政策は基本的にバングラデシュへと引き継がれていきます。一般的にこれは、強制同化政策と言われ、日本の例で言えばアイヌ民族などに対する皇民化政策に当たります。つまり、民族性を捨て、主流の民族・社会に同化しなければその存在自体を許さないという事です。
分離独立後、パキスタン政府は「丘陵人民協会」を即座に禁止します。リーダーの中にインドの旗を掲げた人がいたというのが政府の理由でした。
CHTはそれまで、ムガル帝国時代とイギリス植民地時代を通じて外部からの支配といえば、王(ラジャ)を通じて年貢を支払うという間接的なものであり、しかもその殆どの期間、実質的には独立王国でした。このときはじめて人々は外部からの強権的な支配の脅威に晒されたのでした。
明くる年の1948年になると、パキスタン政府はジュマ民族の武装蜂起を恐れて、「1881年辺境警備規則」を廃止して、警察隊を解体します。また、CHTを開発地域として非先住民族に開発させようとします。パキスタン政府は植民地時代に得たジュマ民族の権利や法的地位を次々に剥奪する政策を進めようとしました。こうした政府の強硬姿勢から多数の人々がCHTからインド、ビルマへと避難しました。その結果、インドとビルマ政府からの批判を受けて、パキスタン政府は「CHT1900年条例」の遵守を約束せざるを得ませんでした。しかし、1950年には条例を破って平野部から100家族を入植させ、55年にはCHTの「特別地域」指定を廃止しています。
この境遇からの変化を望むCHTの政治的な意志を糾合する団体として、1950年”Hill Tracts People's Organisation"(丘陵民族団体)が組織されます。また、1962年はマルクス主義を信奉する社会科学系の学生による「丘陵学生協会」が結成されました。
1970年になると新たな政治的な動きがCHTに生まれます。その前年、アユーブ・ハーン軍政を対人に追い込む大規模な政治行動が起こり、ダッカ大学で少数・先住民族のリーダーとなったのがマノベンドラ・ナラヤン・ラルマ(Manobendra
Narayan Larma、MNラルマ)でした。彼は1970年5月16日に弟のJotindriya Bodhipriya Larmaら学生リーダー4人で非合法のランガマティ共産党(RPC)を結成します。この地下活動が、後に丘陵民族統一党を結成する下地となるのでした。また、その後、彼らはCHTの教師を組織して「丘陵教員協会」を設立しました。
カプタイダム建設の悲劇
ジュマ民族にとって、今なお苦しみの種となっている開発が、1957年頃に始まります。バングラデシュ平野部、とりわけチッタゴン市の工業地帯に電力を供給することを目的とする、カプタイ発電ダム(地図を見る)の建設が始まったのです。これは、アメリカからの技術と資金援助を受け、63年に完成し、当時、東パキスタンの総発電量の約6割をまかなう巨大なダムでした。ダムは北東インドを水源としてチッタゴン市の河口まで流れているカルナフリ川を堰き止め、湖面の広さが1036平方キロメートルもある広大なカプタイダム湖を出現させました。1036平方キロとは、どのくらいの広さかと言えば、島嶼部を除く東京都の面積の半分に当たります。
当然の事ながら、ジュマ民族はこの計画を知ったときから反対しました。これに対して、パキスタン政府は武力を背景に彼らの反対を封じ、ダム建設に伴うベンガル人の移住を進めていったのです。カプタイ湖は、CHTの耕作地の約4割にあたる、もっとも肥沃で平坦な農地と焼き畑地21,853.04ヘクタールとチャクマの王宮を含む多くの家屋を湖底に沈めました。その結果、平地農民1万家族と焼畑農家8000家族の土地と家が失われ、10万人以上のジュマが開発難民となりました。パキスタンはこの18,000家族の内、5,633家族に代替地として国有地(保護林)の土地をそれぞれ3エーカーづつ与えました。しかしこれは、彼らの元の土地の半分にもならず、まして、耕作には不向きな土地でした。加えて移住地での生活復興資金も支給されませんでした。実は、アメリカ政府から2億8,000万ルピーが土地を失った人々の生活復興資金として援助されたのです。しかし、政府は2,000万ルピーしか受け取っていないとしているのです。結果的に、2億6,000万ルピーもの大金がどこかに消えて、立ち退かされた人々に支給されませんでした。その他の人々には、はじめから何の補償もありません。このため、10万人の開発難民の内、主としてチャクマ民族4万人がインドへ難民となって流出し、他に2万人がビルマ(ミャンマー)に流出しました。残った人々も、バラバラとなりCHTの人々はこの開発によって引き裂かれたのでした。
開発難民のその後
インドに流出した難民の内、2万人から3万人が1964年にインド政府によって当時の東フロンティア庁管理地、現在のアルナチャル・プラデッシュ州に開拓移民として送られました。場所はブータンから東へまっすぐ行ったビルマ、中国との国境付近です。そこは、文化人類学や言語学の宝庫と今も言われており、50以上の言語的に異なる多様な山岳諸民族のテリトリーでした。なぜ、その土地にジュマ難民を入植させたのか。インド政府の狙いは、二つあったと考えられます。一つは比較的進んだ農耕技術を持ったジュマたちに開発を促進させること。アルナチャルの山岳諸民族が平地農業をあまりやらなかったのに対し、ジュマ民族には平地での農業技術も森林の傾斜地を利用した焼き畑の技術もあったからです。もう一つは、中国に対する「人間の壁」とすることでした。アルナチャル諸民族は広大な土地に分散して生活していました。当時、人々はジュマ民族の入植を歓迎したと言います。しかし、年が経ち、彼らに割り当てられた土地が比較的肥沃で生産性が高い事を知ると、歓迎は次第に嫉妬に変わっていきます。
インド政府はジュマ難民を入植させるに当たって、彼らに市民権の付与を約束しています。しかし、1999年1月現在に至るも当時の入植者はおろか、そこで生まれた子供達にもいまだに市民権が与えられていません。市民権は、国籍や選挙権を含む基本的人権に関わるもっとも重要な権利です。彼らは、パスポートを持つことが出来ないばかりか、州外への移動の自由も制限されています。加えて近年になると、全アルナチャル・プラデッシュ学生連合などによる排外的民族運動の標的とされます。入植者達は繰り返し襲撃を受け、多くの家が焼かれ、暴行を加えられています。また、州議会も学生達の後押しをして、ジュマ入植者達の州外への退去を決議。1996年、筆者が同州から来ていた青年に状況を聞くと、多くの人が家なしとなって集団で野宿しているという事でした。話を聞いた頃インド政府は彼らに比較的同情的な態度をとっていたといいます。州に対して市民権を与えるよう説得したり、政府軍が人々を襲撃から守るなど。しかし、98年に受け取った情報によると、中央政府の態度は一変し政府軍は襲撃を止めなかったばかりか、暴行に加わる兵士もいたと言うことです。
解放戦争とジュマ民族
1970年12月、パキスタン建国以来初の民主的な選挙の結果、東ベンガル州のほぼ全ての議席をアワミ連盟が獲得しました。これに危機感を持ったパキスタン政府は、71年3月21日、ベンガル出身兵への拘束令を発動し、東パキスタンへの攻撃を始めました。「解放戦争」の勃発です。パキスタンはダカをはじめとした都市部に空爆を加えると共に、イスラム協会(ジャマヤット・イ・イスラミ)が先頭になりビハーリー人を使って、独立支持派のゲリラや知識人を虐殺し、ヒンズー教徒に対する皆殺しともいえる苛烈な攻撃を仕掛けました。この章のはじめで900万人ものヒンズー教徒がインドへ逃げたとありますが、このような組織的かつ極めて残虐で大規模な人権侵害が起こった結果でした(詳しくは次章)。
解放軍は退役軍人でアワミ連盟から国会議員となったオスマニ大佐を司令官に闘いました。4月13日、反政府軍が臨時政府を樹立、そして71年12月インドの軍事介入によってパキスタン軍が破れ、バングラデシュが独立を達成します。
この独立戦争において、ジュマ民族も特に青年層が独立を支持し解放軍に加わったことは<はじめに>で記したとおりです。もう少し具体的に見てみると、ジュマ民族のエリートの中ではどちらに荷担すべきか困惑していましたが、困惑という点ではアワミ連盟の指導者達も同様でした。多くの先住民族の青年が熱心に解放軍に志願したからです。しかし、アワミ指導者達は彼らを冷淡に扱いました。そうした中で、M.N.ラルマは中立を決め込んでいました。結局のところ,チャクマ首長のTridiv
Royやマルマ首長はパキスタン側につき、若者達と市民武装隊に参加し、反解放軍の立場を取りました。このことがあって、バングラデシュではしばしばジュマ民族があたかもバングラデシュ独立に反対したかのように言われますが、実体は解放戦争終結後はCHTにおいても独立を支持した人々が指導的地位に立ったのでした。因みにこのときのチャクマ首長Tridiv
Royはパキスタンに逃れ、パキスタン政府の国連代表団に参加したり、近年ではチリ大使を務めています。(文責:村田)
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