チッタゴン丘陵地帯の歴史3 解放からエルシャド独裁まで
People's Republic of Bangladesh
バングラデシュ独立 光と影
CHTの歴史を語る前に、バングラデシュ解放戦争についてもう少し詳しく見てみましょう。バングラデシュという国を知る上でどうしても必要な事です。
「1971年3月26日、我々バングラデシュ国民は、人類史上最悪の残忍非道なる軍事的暴挙に対して、一丸となって団結した。人々の血と涙と、未だに解明されていない謎と、いやされぬ苦しみによって独立国家バングラデシュが生まれたのである」(1975年の独立記念日、在駐日バングラデシュ大使が英字紙に寄せた言葉)。バングラデシュ国旗の赤い丸は、太陽ではなく独立戦争で流された多くの人々の血を象徴していたのです。
バングラデシュはインドが軍事介入してから2週間後の1971年12月14日に実質的な独立を達成しました。イスラム教を統合の基本としてインドを挟んで作られた飛び地国家パキスタン・イスラム共和国という実験は失敗に終わり、東パキスタンにバングラデシュ人民共和国が誕生したのです。国際社会は年が明け1972年になると社会主義国をはじめ次々にこの新生国家を承認すると共に、援助の手をさしのべ始めます。しかし、冷戦時代にあって、パキスタンを支援してきたアメリカ合衆国など西側の国には承認を渋る国もありました。ちなみに、パキスタン時代から東パキスタン寄りの援助していた日本政府の承認は以外に遅く’72年2月10日でした。
話はそれますが、テレビのアナウンサーなどが"Bangladesh"をよく「バングラディッシュ」と発音しているのを耳にします。当人は、英語的な発音への衒いがあるのでしょうか、これだと「バングラ皿」になってしまい聞き苦しく、第一みっともありません。
前章冒頭で触れたように、独立戦争時に900万人ものヒンズー教徒がインドに避難する事態が発生しています。前年の12月の選挙で東パキスタンのほぼ全ての議席をアワミ連盟が獲得しました。それから間もなくしてパキスタンは東側への攻撃を開始。これに対し、東パキスタンの自治と自由と平等を求めていた人々の運動は、独立解放闘争へと一気になだれ込みます。3月26日、広場に集まり今後の方向を決める大集会で、アワミ連盟の指導者、ムジブル・ラフマンははじめ独立には消極的な姿勢を見せました。しかし、それから数時間もしない内に集会はバングラデシュの独立を宣言したのでした。西パキスタンに配属されていたベンガル出身の兵士達は、その日、拘束されています。軍事的には当然ながら西側が圧倒的に有利でした。東には東ベンガル連隊6000しかいませんでした。そのため、当初、解放軍の実質は国境警備隊の1万5千人、武装警察隊の4万5千人が担ったのでした。後に、解放軍Mukti
Bahiniの勢力は志願兵を含め10万人以上に達します。
一方、パキスタン政府寄りのイスラム協会やムスリム連盟などイスラム諸党は'71年4月9日に「平和委員会」を結成。名前は平和ですが、実際は独立解放派の肉体的抹殺を目的に結成されたのです。組織的な虐殺とレイプなど想像を絶する残酷な攻撃の始まりです。その実行部隊としては、イスラム協会の「ラザカル#と、その学生団を核とした「アル・バタル」、ムスリム連盟の学生組織を中心とした「アル・シャムス」の3団体が上げられます。そして、そうした勢力の手先にされたのがパキスタン独立時にインドから移住してきたイスラム教徒の「ビハーリー」でした。
これらの勢力による大虐殺の舞台となった現場は少なくとも5,000ヶ所に及びました。また、パキスタン政府軍は多くの村々をナパーム弾などで攻撃。CHTにもその部隊は展開しました。この独立戦争で命を奪われた人々の数は実に300万人に達した言われています。独立後、パキスタンの協力者つまり虐殺に参加した「コレボレーター」と言われる連中で逮捕されたのは、3万7,471人に上ります。そして、虐殺者達は、独立派だけではなく知識人とヒンズー教徒も次々に殺していきました。知識人の殺害には、独立後のバングラデシュが立ち行かなくなることを狙っての犯行であったともいわれています。しかし、この中で起訴されたのは2千人程度に過ぎず、実際に有罪となったのは752人だけでした。解放後1、2年が過ぎるとムジブル政権は虐殺者への追求の手をゆるめ、裁判を意図的に遅らせるなどし、後にはコラボレーターに恩赦を与えてしまいます。こうしたことから、「逮捕された人々は報復からの安全のために刑務所(拘置所)に収監されていたのだ」、と批判されています。
最近(1998年)になってようやくその後のムジブル・ラフマン暗殺や、解放戦争の時のコラボレーターを裁こうと言う動きがアワミ連盟政権下で起こって来ました。しかし、「戒厳令から戒厳令まで」といわれるバングラデシュ政治史の中で血塗られていない政党はほとんどなく、実際に自分たちの過去を清算できるのかどうか、まったく分かりません。独立後、アワミ連盟ムジブル・ラフマン政権がムクティ・バヒニの青年層を中心に組織した準軍隊ジョティヨ・ロッキ・バヒニ(国家安全保障部隊)はアワミ連盟内の急進派約6,000人を殺害、ほぼ同数を逮捕、拷問。その他、政治的な理由から数多くの暗殺を行ったと言われ、野党側からはそのことを追求する声が挙がっています。
また、パキスタンへの送致を希望しているビハーリー難民の問題も長い間放置されたままになっています。(この問題については、近く民族のページ;「バングラデシュの少数民族問題」で取り上げる予定です)。
バングラデシュ解放後のCHT
さて、CHTの人々が独立戦争にどのような態度で臨んだのかは既に記したとおりです。ジュマ民族が独立戦争を生き抜いたバングラデシュの人々から不信と憎悪の対象となったのは、ムジブル政権の独裁化と決して無縁ではないと思います。そうした感情の根源は、チャクマ・ラジャのTridib
Roy などが独立戦争でパキスタン政府に荷担したことから来ていることもあるでしょうが、本質的にはジュマ民族が「まつろわぬ民」であるということに最大の原因があると考えるのが妥当だと思います。
バングラデシュ独立後、政府が採ったCHT政策は、CHTの「さらなる植民地化」、あるいは「ジュマ民族に対するジェノサイド」です。新生バングラデシュは国家統合の名の下に少数・先住民族に対するベンガル化を進めようとの意図をあらわにしつつ、チャクマ首長から提出された4項目要求など、ジュマ民族の自治権を求める要求をことごとく拒否しました。
以下、まだ執筆中です。
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